済州島(チェジュ島)と言えば、エメラルド色の海や豊かな自然が美しい観光地として有名ですが、
チェジュ島の美しいさの裏に隠された済州島民の悲しき歴史四・三事件をご存知でしょうか。
この事件は韓国国民なら聞いたことある程度で正確に知っている人は少ないのが現状。
今回は、
約70年間の間だれもが口に出すことができなかった失われていた歴史の済州島四・三事件の歴史問題に触れて見たいと思います。
まず、そもそも済州島はどうやって出来た島なの?と気になる方は▼
目次
済州島(チェジュ島)の大悲劇、四・三事件とは
1947年3月1日を起点に済州島で起きた四・三事件は、
1948年4月3日から1954年9月21日まで、デモ中の済州島の群衆と警察/軍人達の間の流血衝突事件として、武力衝突における鎮圧過程で多くの罪なき住民達が犠牲になり、その数は済州島民の5人に1人、およそ6万人に及んだ韓国の歴史史上最悪の事件です。
ソウルの面積の3倍と広いチェジュ島の95%が焦土と化しました。
四・三事件は、同じ韓国国民同士で多くの血を流した韓国の現代史の中でもっとも残酷で悲劇的な事件と言われています。
済州島(チェジュ島)四・三事件の背景
4月3日に起きた事件なので四・三事件と呼ばれているが、四・三事件がなぜ起きたかを知るためには、1947年3月1日に何があったかを知らなきゃいけない。
四・三事件の始まりは1947年3月1日の第28周年三一節記念日
1947年3月1日の第28周年三一節記念日にチェジュ島では広場に約3万人と人々が集まっていた。
3万人という数はチェジュ島の5分の1以上にも達する数。
なぜそれほどの人が集まったのか。
その背景は、
1910年の韓国併合から1945年の日本敗戦までの35年間、日本は朝鮮半島を植民地支配していた。
その時、日本はチェジュ島を軍事要塞として利用しようとし済州島の各地に要塞を作ったのだ。
要塞を作る過程で日本人は済州島民を強制的に働かせたり、住民達の財産などを搾取をしており、日本敗北後にはアメリカの政府が入ってきたが、済州民は相変わらず貧しい生活を余儀なくさせられていた。
1945年に韓国は日本から独立した後も、すぐに韓国政府を設立できず、3年間アメリカの政府の支配にいて、北朝鮮はロシアの支配にいた。
アメリカの政府は、済州島民の生活などは配慮しない政策を行っていた事に済州島民は不満を持っていた矢先。
日本敗北後に、日帝強占期に韓国の独立運動家などを逮捕したり殺したりしてた親日派警察達がまた済州島に戻ってきた事により、チェジュ島民の怒りが強くなっていて、その抗議の意味を兼ねて1947年3月1日に大規模人が集まっていたのだ。
単純な抗議の集会で終わるはずだったのが予期せぬ展開に!
1947年3月1日の午後2時45分ごろ、騎馬警官が乗っていた馬の蹄に子供が蹴られてしまった事件が起こる。
騎馬警官は倒れた子供の事は全く気にせず、そのまま警察庁に戻るのを群衆達が見てブーイングをしながら警察の後ろを追った。
それを見た警察庁にいた警官が警察署を襲撃してると勘違いし銃を発砲したのだ。
この発砲により子供と赤ちゃんを抱いていたお母さんを含め民間人6人が死亡し6人が重症を負う。
住民達は警察の過剰鎮圧だと抗議したが、警察は発砲は不可欠で正当防衛だと主張し最終的には「警察署襲撃事件」と決めてしまったのだ。
その後済州島に通行禁止令下され、デモを主導した人々を逮捕し始め、さらに他の地域からチェジュ島に数百人の警察を送り込んだ。
それに対して済州島民は中央政府に謝罪を要求し、1947年3月10日から一般市民はもちろん学校、工場、公務員、チェジュ島出身の一部の警察など約4万人以上が参加した大規模のストライキを始めた。
参加者達は3月1日の発泡事件に対する謝罪と責任者の処罰、遺族達の支援を要求したが、政府は完全無視!
むしろストライキに参加した人々を南朝鮮労働党に扇動された左翼勢力扱いをした。
もちろん南朝鮮労働党もこのストライキ過程で積極的な役割をしたのは事実だが、ストライキをした理由は正当なものであったので公務員、学校などもほとんどが参加したわけだ。
とにかく、政府はこの事件を円満解決はしようとせず、むしろ厳しく弾圧していった。
末にはチェジュ島警察を全て解雇し、その警察の役割を他の地方から送り込まれた西北青年会の強硬派に任せた。
▽済州4•3平和公園で事件の発端をアニメーションでわかりやすく説明してます。
済州島(チェジュ島)歴史:虐殺!血も涙もない罪深き「西北青年会」
西北青年会とは、今でいう暴力団の集まりだったが、済州島に送り込まれた際は警察として送り込まれ、数人体制で町中を回りながら、アカや左翼を探し出すと言う名目で、罪もない民間人を好き勝手に殺したり、レイプや暴力をふるなど主に本来の警察ができない残酷な行動を行ったのだ。
警察はストライキに参加した人々は大々的に検挙し、西北青年会は虐殺を怠らなかった。
まるで地獄化したチェジュ島。
その最中、1948年に警察に検挙された若者3人がひどい拷問によって続けて死ぬと言う事件が起こり、チェジュ島人のの怒りは頂点に達した。
済州島(チェジュ島)歴史:済州島党が武装闘争で反撃に出る!
この最悪な状況で南朝鮮労働党済州島党は反撃にでた。
これは南朝鮮労働党が指示した事ではなく、済州島党が単特で行ったこと!
1948年4月3日、300人の武装隊が警察署と右翼の家を襲撃をし反撃を始めた。
この時、アメリカ政府が派遣した警備大将「キムイクリョル」と言う人物は、平和的解決を求め武装団と交渉を試したが失敗に終わる。
済州島(チェジュ島)歴史:なぜ平和交渉が失敗したのか
平和交渉が失敗したのは
警察がわざと民家に火をつけ、武装団の仕業だと嘘の証言をするなど、平和交渉間ずっと警察が妨害をし続けていたのだ。
※民家に火をつける時、空にはアメリカ軍の飛行機がそれを撮影したという。これは何を意味するのかというと、アメリカ軍はこの事件が起きることを事前に知っていた事を意味する。ということはアメリカ軍の計画だったのか?これに関しては、はっきりされてない。
とにかく事態は悪化していく一歩、5.10総選挙が開かれた。
5.10総選挙が持つ意味とは
5.10総選挙は、初代総選挙で韓国歴史上初めて行われた選挙だった。
しかし、この5.10総選挙が四・三事件の争点になる!
上記で述べたように韓国には政府がない状態だったので、誰がどのように政府を作って行くのかが問題だった。
その時、李承晩(り しょうばん、イ・スンマン)を中心にした勢力は、選挙が可能な南朝鮮(韓国)だけででも選挙をしようと主張した。
いわゆる、南朝鮮だけの政府を作るとのことで、一つの国が北と南で二つに割れることを意味する。
当時3.8線を基準として南にはアメリカ軍が、北にはソ連軍がいたが、この時にはこの分断が長く続くとは誰も思わなかったのだ。
こんな状況で李承晩の選挙主張は、この分断を事実認めようとしている発言だったので、独立運動家を含め分断に反対する人は、この選挙に参加してはいけないという運動が起った。
武装団も選挙に反対する勢力だったため、済州島民を山に送り選挙に参加できないようにしたり、投票所に火をつけたりし選挙を妨害した。
結局チェジュ島は全国で雄一5.10総選挙に参加しない地域になり、済州島はアカの島だと名付けられ、李承晩は1948年11月17日に済州島に戒厳令を下し、焦土作戦といった強硬鎮圧にでる。
済州島(チェジュ島)歴史:焦土作戦の始まりにより地獄化して行くチェジュ島
討伐隊は子供、女、老人など関わらず無慈悲に人を虐殺し始めた。
虐殺方法は言葉で表現できないほど残酷なことだったという。
例えは、射殺される人の家族に対して射殺される人を見ながら万歳や拍手をさせたり、住民を一つの場所に集めまとめて射殺をしたり、または単純にゲーム感覚で人を殺したりしたのだ。
もはや理念など関係なく討伐隊の目に入った人は全て殺されたのだ。
こうしてチェジュ島民は南朝鮮労働党と討伐隊にとダブルで虐殺をされ、この事件で死んだ人だけでも3万〜8万人に達する。
1948年に始まった四・三事件は1954年ごろやっと落ち着き始めたのが、その後もチェジュ島民は辛い時間を過ごす事になる。
犠牲者達はアカと言う濡れ着を着せられ、遺族達はアカと扱いされるのを恐れ、犠牲された事実まで隠して暮らさなきゃいけなかったのだ。
韓国の歴史なのに四・三事件の真相を知っている人が少ない
済州島は、現在のように観光地として行く島ではなく、閉鎖的な場所だったのもあり、四・三事件は韓国が民主主義になってからも長い時間表に出て来なかった。
2000年になってようやく四・三事件特別法が制定され、2003年には政府の公式報告書が採択された。
そして2006年には盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が、韓国の大統領としては初めて犠牲者と遺族達へ公式に政府からの謝罪をした。
2008年には平和公園ができ、2014年には四・三が国家追悼日として指定された。
赤いツバキの花のように 虐殺の血に染まった悲しい済州島の歴史
四・三事件は少し前まで下手に触れては行けないタブーな歴史の話でもありました。
実際、まだ被害者達に対する報償体制はしっかり整えてなく四・三事件に対する教育薄い為、これからも被害者や遺族の被害報償と追加真相究明を続けて行かなきゃ行けない課題があるまだ終わってない歴史でもあります。
今回私は済州島の四・三事件について記事を書きながら、チェジュ島出身の私でもよく知らなかった事実などを知ることができ、またあまりにも悲しき歴史に心が痛かったです。
チェジュ島と言えば美しい観光地と言うイメージがありますが、その美しさの裏にはチェジュ島民の悲しき歴史があることを、私自身、改めて思う時間になりました。
「記憶しない歴史は繰り返される」という言葉のように、みんなが目を背けたい歴史だからこそ、しっかり認識し学び、再びこんな悲惨な歴史を作ることないようにしないといけないでしょう。
現在のチェジュ島の治安は?▼
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※チェジュ四・三事件の背景はとても複雑である為、一つの要因としては説明が難しく未だに賛否世論がある事件でもあります。